2012-11-08

次の説教は昨年2011年の聖体の祝日のときのものです。

今年は典礼の暦がとても遅くなっています。2週間前、私はシカゴで「キリストの聖体」をお祝いしました。今度「キリストの聖体」の祝日が今年のように遅くなるのは2038年で、6月24日になります。そこで今日は、私たちの神さま、そして「神は我々と共におられる」の意味であるインマヌエルを、もっと味わうことができる主日としたいと思います。

今日のミサは、この揺るぎない希望の叫びで始まっています―「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう。」 主は祭壇の聖櫃のうちに、聖別されたご聖体として、私たちと共におられます。聖体拝領を通してイエスが私たちのもとに来てくだされば、私たちの魂に主のお恵みを刻むことなく離れてしまわれることはありません。この秘跡の力、神さまのご慈悲の暖かさは、私たちの魂のうちに留まるのです。

しかしながら、私たちは教会から一歩出るやいなや、私たちが主をいただいたことなど忘れてしまい、ビジネスや、仕事、その他世事に没頭してしまうことも度々です。確かに私たちは自分の弱さを知っています。神さまからお恵みをいただいたことはいともたやすく忘れてしまい、おかした自分の過ちや不信心さへも簡単に忘れてしまうのです。そこで、今日のミサにある次の美しい祈りを謙虚に繰り返し捧げることがとても大切になります―「主よ、わたしたちの罪をお許しください。救い主である神様、御名の栄光のためにわたしたちを助けてください。」 わたしたちが絶えず神さまのお恵みに助けられているとしても、また、幾度となくゆるしの秘跡を受け、ご聖体をいただいているとしても、私たちは毎日、次から次へと過ちを犯すものであることを認識し、日々を新たにしていかなければなりません。

カトリック信者として生活を送ることには努力が必要となることも、また痛みをともなうこともあります。しかし、聖パウロは、今の労苦が、来たるべき栄光とは比較にならないことを私たちに気づかせてくれます。栄光が天にあるという思いはなぐさめであり、希望であり、自信となります。また現在の苦しみが、自由へのあこがれや、すでにこの地にもたらされているはずの完全なる罪のあがないを望むことを妨げるものではありません。なぜなら、私たちが弱さゆえに苦しめば苦しむほど、救いの力に全幅の信頼をおいてイエスと向き合うことになるからです。

今日の福音は、次のイエスの言葉が実際的であることをよく表しています―「わたしがいなければ、あなたたちは何もできない。」 シモンと彼の仲間は一晩中ずっと漁をしていましたが、何も捕れませんでした。もし私たちに霊的な生活で多少の経験があれば、こういうことは私たちにも起こりうるものだと気づくことでしょう。あれやこれやのしがらみから自分を解き放ちたい、受けた傷を忘れたい、また、隣人のやり方に自分を合わせなければならないなど。こんな時、いったいどれほどの努力が必要となるでしょう。私達が自分だけの力に頼っている限り、聖ペテロの網のように、私たちの手の中は空っぽなのです。でも、みなさん、がっかりすることはありません。

もし、私たちが挫折感に捕らわれず、謙虚に過ちに気づくことができれば、過ちそのものが栄光へと形を変えるのです。いくら私たちが善意をもって徳を高めようとしても、私たちが自分の欠点や未熟さを十分わきまえていると主が判断されるまで、主は私たちに成功をお許しにならないでしょう。そして、時として一晩中働いても何も得られないという経験も私たちに示されるのです。しかし、自分の弱さを正直に認める意志を私たちが持っていると一旦判断を下されれば、主は私たちの助けとなってくださるのです。ですから、私たちは主を信じる強い心を持ちましょう。決して自分をあきらめさせないことです。主のみ言葉に信頼して日々を新たにしていきましょう。同様の確信をもって「主よ、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と語った聖ペテロのことを思い、今日の祈りを改めて味わいましょう。

ではみなさん、天の国を目指す旅の途中で、毎日の生活の中で、またその一瞬一瞬において、今日の祈りを繰り返し唱えましょう。

「主よ、わたしたちの罪をお許しください。救い主である神様、御名の栄光のためにわたしたちを助けてください。」アーメン。