2013-2-1

主の降誕後第一主日

クリスマスが過ぎて、今日のミサでは平和と喜びが語られます。しかし、同時に深い悲

しみの色も含まれています。

さて福音書は突然、生後40日のイエスを神殿に現し、シメオンの預言を繰り返します。

「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」

確かに私たちは、反対を受ける場から逃れることはできません。そして、私たちを苦しめたり、神の愛とご慈悲について疑り深くさせようとする反対のしるしの中で、最たるものが、「全能で善と愛に満ちた神が、どうして地上で悪の繁栄を許し、神の民がしいたげられ、苦しまねばならないのか」というものでしょう。

もし私たちが繁栄と地上での栄光のみを夢見るならば、この反対のしるしは理解しがた

いものとなるでしょう。ただ物質的な生活を理想とする人にとって、苦しみの精神的な意

味を理解することはとても難しいでしょう。

人の見識では苦しみは理解しがたいことであり、人を混乱させ、神の御旨に対して不平不満を言わせるもとで、神への全幅の信頼をも失わせようとするかもしれません。

しかしながら、神の知恵によれば、苦しみは救いと贖罪の一つの方法なのです。

ですから、聖性と永遠の命を獲得するためには、私たちがこの真実を受け入れ、悲しみの試練を経て浄化されることが大切なのです。

幼子のキリストは神の愛と慈悲を象徴するものです。神は躊躇なく人の形を取られ、人の魂を救うために幼子となられたことを私たちは忘れてはなりません。「そして、真実の愛は純粋な愛のみによって報われるのです。」

神の真実の愛が魂に入ると、それは次第に内なる活力を溢れさせ、愛である神を喜ばせるためにいかなる方法でも取ることに一生懸命になります。

真に愛することを知っている魂は、課せられた務めが易しいか困難か、意に添っているか気に食わないか見極めることを止めません。しかし、愛を維持するために、すべてを引き受けるのです。

イエズスの聖テレジアは異郷生活が長引くと分かったとき、神に捧げた苦しみの中で、自分の心をなだめる唯一の方法は永遠の愛への渇望であると悟りました。

はっきりしていることは、このような愛が、私たち人間のあまりにも貧弱な特性が生み出したものではあり得ないということです。内からの浄化のため、狭い道を通って神が導いてくださることを承知している魂に、唯一神ご自身が、少しずつ愛を注ぎ込んでくださるのです。

何の実りもなく、心も孤独で、光と慰めが全く欠乏しているとき、聖霊は魂の中にあわれみの炎を燃やします。その炎は、魂が前向きになっていて、愛に反するすべてのものから浄化されていることがわかれば、ますます入り込んでくるのです。

私たちは、神への愛のために苦しむことで浄化される必要があります。

今日の福音書ではシメオンとアンナのことが語られています。幼子イエスが神殿に献げられたとき、その場に居合わせた人たちの中で、救い主であると確信していたのは、年老いたシメオンと女預言者のアンナの二人だけでした。シメオンについてはこう語られています。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」 またアンナについては、「彼女は神殿を離れず、断食をしたり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」と書かれています。

二人の中に、イエスの救いの業を受け入れようとする魂の前向きな姿がうかがえます。それは精神と意志に正義が満ち、心から神を慕い、黙想し、祈り、そして罪からの誘惑を克服しようとする姿です。その心のありようが深くなればなるほど、魂は神の行いに対して門戸を広げようとするのです。また聖霊の光は、イエスが魂の救い主であり、聖別される方であると、魂が確信できるよう導くのです。

そしてイエスはその魂の中で御業を完全に成し遂げられることができるのです。

今日の書簡の中で、聖パウロはイエスの血によって救われたすべての魂に語りかけています。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば神によって立てられた相続人でもあるのです。」

イエスは人となられ、私たちの中にいてくださいます。

ですから皆さん、キリストとともに神の愛と真実の内に成長し続けていきましょう。

アーメン。